ダビデ自身が聖霊に感じて言った、 『主はわが主に仰せになった、 あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、 わたしの右に座していなさい』。
主はわが主に言われる、 「わたしがあなたのもろもろの敵を あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
神は、御使たちのだれに対して、 「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、 わたしの右に座していなさい」 と言われたことがあるか。
なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。
それでもあなたは年久しく彼らを忍び、あなたの預言者たちにより、あなたのみたまをもって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けなかったので、彼らを国々の民の手に渡されました。
「主の霊はわたしによって語る、 その言葉はわたしの舌の上にある。
なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、 「きょう、み声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」 とダビデをとおして言われたのである。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。